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怖すぎる [大震災]

3月15日(火)

とても会社に行ける精神状態ではなかったので休みました。

ガソリンも余裕ないですし。

 

原発がさらなる危機にあることを知りました。

 

10時30分。

何かが聞こえると思い窓を開けると

バイパスを走る車両から

「近隣住民の方々は窓を閉め屋内避難していてください」と

アナウンスが聞こえました。

風に乗って聞こえる程度です。

急いで閉めました。

 

TVを見ても何も変化がなかったのですが

しばらくして首相会見で屋内退避と言っていました。

テロップでいわき市と流れました。

いわき市もいよいよ。。。

私がいるのは小名浜地区なので市の南です。

事故の起きている第一原発から50~60キロくらいでしょうか?

でもアナウンスは流れています。

怖いです。

 

もし放射能をあびた可能性があるときは外で服を脱ぎ

シャワーを浴びて・・・と言っていましたが

断水なのでシャワーなんて浴びれません。

 

今後圏外退避と言われても

ガソリンがないから逃げれません。

バスで避難となってもそれはこりきもくくりも一緒に乗れるの?

避難所にも一緒にいられるの?

屋内にいるしかないです。

でも断水中なので給水にも行きたいし。。。

 

パニック。

 

毎日泣いています。 

とりあえず今は無事でいます。

 

震災後たくさんの方々から安否や励ましのメールや電話をいただきました。

すごく嬉しかったです。

本当にみなさんどうもありがとうございます。

これからも頑張ります。


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出社してみたものの [大震災]

3月14日(月)

出社しました。

通勤途中見える海を見たら

その地区一帯崩壊していました。

TVで見る映像を目の当たりにしてしまいました。

会社へ着くと、週末に海岸地域へ行った人達が撮った写真を数枚見せてもらいました。

話では聞いていましたが

見るとショックを隠しきれませんでした。

私が知ってる場所とはまるで別。

会社から歩いて数分のところまで

流された車が横たわっていました。

妹もギリギリ避難できたのでしょう。

怖いだろう、寒いだろう、お腹すいているだろう・・・。

会社でも涙がとまらず人目を気にせずずっと泣いていました。

いわき市は一部地域を除いてほとんどの場所でずっと断水が続いています。

会社の近くに給水場がったのでもらいに行きましたが

その場所は当日一時避難したあの小学校。

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怖いけどこういう中を歩いていきました。

 

会社へ戻り早い時間なら商品があるようなので

近くのスーパーへ向かってみるとすでに長蛇の列。

心折れそうになりましたが頑張って並びました。

コンタクトの洗浄保存剤がなかったので必須ですから。。

会社へ戻りみんなで話をしていたらまた地震が。。

TVでは警報注意報が出ていなかったのですが

3mの津波が来る、と消防車が避難勧告しながら走っていました。

なので急いでまた小学校へ。

今まで聞いたことがないウ~っと大きいサイレンが鳴り渡っていました。

怖くて泣きながら歩いていました。

学校へ入ると、津波の情報と同時くらいに原発がまた爆発したと聞きました。

近隣地区は屋内退避するようにと。

いわき市のすぐ上隣の双葉郡まで避難指示がでています。

実際被爆されてしまった方々もいらっしゃいます。

地震や津波に合わせて原発の恐怖。

何より今またこうしてこりきとくくりと離れてしまっていることが

私の恐怖と不安をあおっていました。

この場所からもしそのままバス等でどこか避難となった場合

一旦帰宅することが不可能だと思い

パパに「もし圏外避難の場合には二人をお願いします」とメールしました。

避難中ずっと泣いていました。

津波が来ないことが認められ、また、原発の避難勧告地域の変更もなかったので

会社にもどりました。

会社にもどると、断水していない地域の同僚の方からの差し入れで

おにぎりとかをいただきました。

会社も無事な状態なので

できる限りのことをしようと。

動くことによって一日でも早く復興するのであれば、と思い、

気を張って出社しましたが

結局私は鳴った電話にでることもできませんでした。

やはり家のある内陸部から海の近い会社に行くのが怖いです。

早々に帰宅しました。

直後くらいに携帯がなりましたが手がふさがっていて出られず切れてしまいました。

見ると妹からの着信でした。

留守電にメッセージが残っていました。

「なんとか無事に生きてるから・・・」と泣きじゃくりながら。

聞いて泣きました。

地震後初めて聞いた妹の声です。

急いでかけなおしましたが全然つながりませんでした。

祈りながら手を震わせながら何度もかけました。

やっとつながって会話ができました。

とても酷い状況だったようですが

避難所から今は津波被害のなかった会社の先輩の家にいるそうです。

停電はしているものの

食事も災害に会わなかった他支店の社員さん達の暖かい心遣いにも

助けられているそうです。

お互い泣きながら話しました。

怖い思いはしましたが

もっともっと辛い被災者の方々を思うと私たちはとても恵まれた状況だと思います。

孤立している方々、外で助けを待っている方々、

避難所で過ごしている方々

ご家族等と連絡がつかない方々を思うとまた涙が出てきます。

電気・ガスが使えるだけ良いです。

布団で眠れるだけ幸せです。

贅沢な電気毛布は使わないようにしました。

ホットカーペットも使用しないことにしました。

できる限りヒーターも使わないように

部屋の中で厚着して毛布にくるまっています。

つかわない電気は切りコンセントを抜きました。

頭を洗えないけど我慢します。

 

電力不足により計画停電も行われています。

たくさんの方々が不便な思いをして

混乱がおこっているのも事実です。

 

早く今までのような暮らしができますように。

それ以上に

今は一人でも多くの方々が救出されますように心から願っています。

 

被害にあわれた方々にお見舞いを申し上げます。

亡くなられてしまった方々・ご遺族にお悔やみ申し上げます。

 

とりあえず今の私にできることは、こりきとくくりを守ること。

震災以降二人とも下痢をしていました、ストレスでしょう。

今は大丈夫です。

 

人間だけではありません。

動物・植物も無事に生き延びたい。

 

”平和で安全な暮らし”って、本当に本当に幸せなことなのです。

 

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命の水です。


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泣きまくりで目がおかしい [大震災]

3月13日(日)

早朝からTVを見ていました。

時間がたつにつれていろいろな映像や情報が多く入ってきました。

知るたびにショックでした。

 

昔住んでいた岩手県。

三陸にはたくさん遊びに行きました。

何人かの友達は海岸沿いに引っ越し住んでいます。

 

大好きな街仙台があるすぐお隣の宮城県。

気仙沼はパパとも行った思い出の地です。

石巻や松島にもたくさんの思い出があります。

仙台から石巻に向かって走る仙石線。

妹の家にいくときには必ず使います。

野蒜や多賀城にも知り合いがいます。

会社の取引先の8割は仙台の会社です。

 

地元福島県浜通り。

何度も国道を走りました。

毎年お花見に行っている夜ノ森やJビレッジ。

去年の冬遊びに行ったドックカフェ。

すぐ上隣の楢葉地区は市内感覚なところです。

在住しているいわき市。

いわき市は綺麗な海岸があります。

夏は県内外から海水浴客がたくさんいらしゃいます。

一年中サーフィンを楽しんでいる方もいます。

海岸沿いを車で走るだけでも気持ちいいところです。

小名浜には海産物やお土産を扱うららミュウや水族館。

港では毎年夏花火大会が行われています。

そんな海沿い。

学生時代の友人だったり知人も多く海沿いに暮らしていました。

連絡がつかない人。

安否確認ができても家が流されたとか。。。

TVではあまり流れませんが

そんないわき市の海岸沿いもとても無残な状態になっています。

本当にショックです。。

あまり映らないいわきだったり茨城や千葉あたりも

想像以上の被害にあっています。

 

午前中、動物病院へ行きました。

地震後、安否確認とともに何かあったら連絡くださいとメールをいただいていたので

すごく嬉しかったです。

フードだけ買いに行き

先生もいたので少しお話しました。

 

その後二人のトイレシートを買いにホームセンターに行きました。

レジは長蛇の列でした。

並んでいる間にまわりから聞こえる会話。

ほとんどが市内の悲惨な状況。

並びながら一人で泣きました。

 

午後、パパとスーパーに行きました。

が、すでに店内はこんな感じでした。

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買い物かごを手にしたけど入れるものがない。

泣きました。

 

気分転換にアパートの庭でこりさんのプチ散歩。

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久しぶりにルンルンな姿を見ました。

くーたんはキャリーバッグでお昼寝していました。


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震災翌日 [大震災]

3月12日(土)

本当は出勤予定日でしたが休みました。

一日中家にとじこもっていました。

ずっとTVを見ていました。

親の不安やイライラが子供にうつるように

飼い主のイライラら不安が犬にもうつると思い

二人が起きている間は明るくいるように心がけていましたが

ふと気付くと震えているし、涙が流れていました。

 

余震のたびにこりさんは・・・

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避難してしまう。

くーたんは

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動ぜず日向ぼっこ継続。


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東日本大震災 [大震災]

3月11日(金)

あの大地震が起きたとき私は仕事中でPCにむかっていました。

すると携帯がビービービーと鳴りだしました。

携帯を見ると緊急地震速報。

するとすぐグラグラと揺れだしました。

いつもなら「この揺れは3か?4か?」なんて言いながらそのま動かないけど

このときはなぜか揺れと同時に外にでました。

とたんにその揺れはとても大きくなりました。

とても立ってはいられませんでした。

コンクリートとは思えない大きな地面の動き。

ガラスの音、たくさんの物が倒れる音。

しゃがみこんで泣きました。

揺れは長かったです。

揺れを感じながらパパに電話しました。

泣きながら何度も電話しました。

全然つながらなかったのでメールをするとかろうじて送れました。

メッセージは「地震!こりたち」とだけ。

手が震えてしまって、それを打つのが精一杯でした。

泣きながら打ちました。

座ったまま立ち上がることもできませんでした。

ただ震えて、泣いていました。

私の職場は海の近くなので消防車が高台への避難を勧告しながら

走りまわっていました。

コート、貴重品だけ取るために急いで事務所の中へもどると

棚という棚やカウンター、書類等はすべて倒れ散乱していました。

大津波警報が出ているというのは避難中歩いているときに人から聞きました。

揺れだけで動転していたので、

このときは津波被害がこれほどひどくなるものだとは

少しも思っていませんでした。

避難したのは近くの小学校なのですが

その学校の建物も亀裂・一部崩壊、校庭も亀裂・陥没等で

安全な場所ではありませんでした。

中に入るのも怖いし校庭にはいけないしうしよう、と駐車場にいたときに

まさかの雪が降ってきました。

同時に風も強くなりました。

最悪な状況で震えと涙がとまりませんでした。

バッグをかかえ、ただ携帯だけを握りしめていました。

そこへやっとパパからの連絡が入りました。

メールで「家の中は悲惨だけどこりとくーは無事」と。

家に戻り真っ先に二人の安否確認をしてくれたパパに感謝です。

たまたますぐ戻れた場所にいれた状況も運が良かったです。

地震の揺れとともに

家の中のあらゆるものが倒れたり壊れたりして大きな物音がしたでしょう。

怖かっただろうけど二人は無事でいてくれました。

ケージに入れていて良かったと心から思いました。

何かの下敷きや、割れ物を踏んで怪我をしてしまったら大変でしたから。

小学校には2時間程いましたが

外に出ていた営業の人が迎えに来てくれたので

一旦会社へ戻りました。

私の会社は浸水しませんでしたがギリギリ駐車場は水が来ていました。

止めてあった私の車も

タイヤ半分くらいまで水が来ていたような形跡がありましたが

ギリギリ水没をまぬがれました。 

会社の中のTVがついていたので

そのときに初めてこの今回の災害の酷い状態を知りました。

いわきは津波と言っても水位があがるくらいだろうと。

今までも警報がでても結果被害はなかったし。

平和ボケでした。

ちなみにいわきの震度は6強。

 

パパとこりき・くくりの無事、市内在住のお互いの身内の無事は確認できていましたが

この時点では仙台に住む私の妹とだけ連絡がついていませんでした。

 

会社からの帰りの道路は

いろんなところで亀裂や陥没・うねり等がありひどかったですが

なんとか無事帰宅しました。

玄関のカギを開けるとき

いつもワンワン騒ぐこりきとくくり。

いつもは近所迷惑になるからやめて~と思いながら扉を開けますが

このときほど声を聞きたかったことはありません。

姿を見た瞬間抱きしめました。

「怖かったよね、一緒にいてあげられなくてごめんね。よく頑張ったね」

たくさん声をかけてあげました。

余震が続き、精神的に不安定なこりさん。

揺れのたびに目を充血させて涙目、瞳孔が開きハアハアしてブルブル。

壁をカリカリほじりだしたりします。

一方くーたんはマイペースで私の腕でマウンティングしてました^^;

夜はこりさんの不安定はずっと続いていたので

キャリーバッグに入れてそれを抱きかかえ布団にくるまって眠りました。

大きい余震の時は、ワタシも怖くて隣で寝ているパパに触るのですが

その何度か目のときに

間に移動してきてで寝ていたくーたんに手が触れてしまい

ウー・・と怒られました。

 

ずっと連絡のつかなかった妹の住まいは仙台市の宮城野区。

仙台港のあるところです。

アウトレットや工業地帯のところです。

被害の大きい若林区の上です。

なかなか連絡がつかず心配でしたが

夜中にやっと実家へ無事連絡が入り

それを聞いて泣きました。


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